大学教育におけるAI利用についての一見解

生成系AI(文章作成、画像・音声・映像生成、コンピュータプログラム生成など)が出力する生成物の質の高さが急激に高まっており世界中が驚いています。そして同時にその応用方法や問題点についてさまざまな議論が起こっています。中でも文章生成系のAIは、自然言語を用いたChat形式で気軽に依頼や質問といったやりとりができるため、利用のハードルが下がって誰でも使える点で大きな注目を浴びています。

当然ながら教育関係者の間でも文章系を含む生成系AIの利用方法について議論になっています。議論の対象は、短期的な視点から中、長期にわたるものまでさまざまです。

たとえば短期的な視点では、この4月から始まる授業のレポート課題で学生がAIを使ってきたらどうすべきかというAIの弊害についての議論です。また中期的には、AIの積極的な教育利用を想定し、学習時にAI利用によって得られる恩恵とはどのようなものかについて議論が行われつつあります。そして長期的には、子供の学習観の見直しについても議論が進む可能性があります。

ここでは短期的な視点での議論に注目しましょう。すなわち、大学で学ぶ学生に対してどのようなAI利用のルールを定めるかという問題です。

おそらくこれには3つの立場があると思います。

  • 1)レポートなどの提出物にAIの利用を禁止する(利用が判明したら罰則)
  • 2)AI生成物そのままをレポートとして提出するのを禁ずる。
  • 3)AIを自由に使って良い。

1)は指針としてはシンプルでわかりやすいのですが、そもそも現在のAI生成物は人間によるものとほとんど区別がつかないという点で、その抑止力については疑問も浮かびます。そして文章系AIのもう一つの応用方法であるアイデア出しや自分のアイデアの評論をしてもらったりといったAIとの協働について言及されていないため、「問題ない」AI利用についても学生が萎縮する可能性があるでしょう。

MicrosoftやGoogle社がOfficeソフトウェアの一部にAIを組み込むかもしれないという報道もあり、その場合にAI利用を避けることはほぼ不可能でしょう。実質的に守れない厳しいルールを規定することでそのルール破りが常態化し、ルールを守らなければならないという倫理感を壊してしまう恐れがある点で、1)はあまり良いルールではないかもしれません。

一方、2)のルールは、多くの大学が採用を検討するであろう中庸的なルールだと言えます。学校教育において、いかに学生の学習達成度を測るかという問題は学校という制度が生まれてから現在まで続く永遠のテーマです。測る手段の一つとして、伝統的に講義内容に関連する小レポートの提出が採用されることが多いと思われます。しかしAIの自動生成文は人間の文章と区別がつかないどころか、場合によっては受講生らが時間に追われてでっちあげたレポートの平均より高品質とあっては教員らは顔色が変わらざるを得ません。「今年の学生のレポートは質が高いな。今年の学生は優秀な学生が多い」などと呑気なことを言っている場合ではないのです。

教育におけるAI利用について、多くの教員が譲れないラインは、AIの出力そのままを成績評価に関わる提出物(作品・レポート・論文等)にされることでしょう。そこに学生本人の学びがほとんどないことを危惧しています。そのため、そのような利用方法は禁止せざるを得ないでしょう。

ただ一方で、それを見抜けるのかという問題も同時に発生します。多くの大学では、成績評価に関わる提出物の作成に、学びに寄与しないただ手を抜くためのAI利用を避けるよう注意喚起するのが精々でしょう。原則として学生の良心と学びに対する真摯な態度を期待し、信用するしかありません。授業を担当する教員は、学生に対してなぜそのような利用を禁止するのか丁寧に説明をし、また学生からも意見を求めることで、これまで以上に学生・教員間の信頼関係を醸成する必要があるでしょう。

学習達成度を測る際にも、厳密性を求めるならば対面での筆記を求めたり、学習活動の結果の作品だけでなくその活動の過程も含めて総合的に評価する必要があるでしょう。その意味では、大人数が受講するオンライン授業で成績評価は小レポートのみという形式の授業が一番問題となるかもしれません。コロナ禍を通してオンライン授業が多く開催されるようになりましたが、まさかこのような方向でブレーキがかかるとは、皮肉なものです。

ここまで教育におけるAI利用について、ネガティブな側面ばかりを強調してきましたが、教育におけるAI利用には大きな可能性があることは間違いありません。その観点から、3)AIを利用して良いというメッセージを伝える大学があります。現在私が知る限りでは多くが海外の大学ですが、今後社会に浸透していくAIの可能性を考えるために、むしろ大学の学びの中で積極的に活用せよという方向性になります。

文章作成AIの可能性はとてつもなく、自然言語で依頼して質が高いレポートを作成してくれるだけのものではありません。レポート作成準備段階のアイデア出しや自分の考えたアイデアの批評、アイデアの整理、自分が書いたつたない文章の添削、自分の論で足りない要素の指摘まで、まさに人間のパートナーと近いレベルまで応用が提案されています。つたないアイデアでも馬鹿にせず、褒めて応援して、最後まで根気よくつきあってくれるという点では場合によっては人間よりも優れているかもしれません。

文章生成系AIとの協働学習は、公教育における切り札の一つになるかもしれません。文科省が提言する「子どもの学力や適正に合わせた個別最適な学習」という理想について、教育関係者は長らく頭を悩ませてきました。GIGAスクール環境の導入によってクラウドベースで個別の教材を提供するまでは考えられるのですが、子供一人ひとりに寄り添うような教師は、夢でしかありませんでした。この生成系AIという新しい技術はこの閉塞した状況を一気に切り開く可能性があります。

差し当たっては、学習教材開発会社に期待でしょうか。「AI家庭教師」付きの教材をサブスクリプション形式で発表・販売する会社は今年度中にでると予想しています。それを導入する学校が続出するでしょうし、そこからまた大きな教育業界の変革が起きるかもしれません。

このような教育における積極的なAI利用という中期的な視点での議論は、今後活発に進むようになるでしょう。AIと教育に関連した学術団体からは今後も目が離せません。また、子供が学ぶべき知識やスキルとはどのようなものであるべきかという子供の学習観ついての議論は、教育関係の識者によって長期的な視点をもってエッセイや著書という形で語られるようになるかもしれません。AIによってまさに時代の変革にいる我々は自分なりの意見をもってこれらに備えたいものです。

以上、長文をお読みいただきありがとうございました。本文書は愛知教育大学や教職キャリアセンターを代表する意見ではなく、筆者である准教授中池竜一の個人的な見解であることをご承知おきください。ご意見等お待ちしております。